自己中と自己抑制

アメリカの故ケネディー大統領は、その就任演説の中で次のように述べています。

 

「祖国があなたに何を出来るかを問うより、あなたが祖国に何が出来るかを問うてほしい」

 

この一節は有名ですから、ご存知の方もいると思いますが、この祖国の部分を社会や政治に置き換えると、考えさせられるものがあります。 社会が国民一人ひとりを斟酌して、動いているわけではないことは言うまでもありません。政治もまた然りです。

 

その中で、自らを弱者と決め付け、社会の中に溶け込もうともせず、なるべくしてなった疎外感に腹を立て、「社会が悪い、政治が悪い」と居直りを見せるのは、如何なものでしょうか。

 

自らを弱者であると決め付けるのは簡単なことですが、とにかく命が果てるまでは、生きて行かねばなりません。生を受けてから死に至るまで順風満帆で一生を終えることは理想であって、それが叶わぬことと分かるには、さほどの時間も要しません。

 

自分の思い通りにならぬ苦しみ、仏教でいうところの「五蘊盛苦」になろうかと思いますが、それでも人は少しずつ学びながら、これに耐える知識を蓄えながら、生きて行きます。人が自らを中心に考えるのは、当然のことかと思います。人はなぜ自分中心に考えるのか。お釈迦様はこう言っています。

 

「人はこの世にひとりで来て、ひとりで帰る」

 

人は生まれて来るのもひとりなら、死んで行くのもひとりであるとの意ですが、自分の死に関しては、たとえ肉親であっても変わって貰えない。「この子の命が助かるなら、私の命を差し上げます」と母親が泣き叫ぼうと、子供の命は助からない。この現実があるからこそ、自分中心にと考えざるを得ないとなるのです。

 

しかし、社会というところは、自分中心の集合体であるにも関らず、成り立っています。そこに何があるかというと、自分中心より勝るものがあるからです。それは共生ということになるのですが、ここで いう共生とは、単に横並びにあるということでは
なく、互いに補あいながら生きて行くということです。

 

これは得るだけの一方通行ではありません。ある時は得ることがあっても、ある時は与えなければなりません。その与えるということの前提には、自己抑制ということが必要です。
冒頭の「あなたが祖国に何が出来るかを問うてほしい」に答えを出すとすれば、この自己抑制ということになるのではないでしょうか。

 

社会や政治に不満を感じるのは、そこに自己抑制がなくあくまで自分中心の域を頑なに守ろうとする姿であり、共生から遠く離れた位置で、遠吠えを繰り返す野犬に等しい姿ではないでしょうか。確かに自己抑制を続けることは苦しいことでもあります。しかし、苦しみを乗り越えてこその喜びに勝るものはありません。問題はそこに一歩入っていくかどうか、その気持ちがあるかどうかということになります。