人の良いところを探して見る

誰にでも良いところはあると言いますが、裏を返せば良いところがなかなか見つからないとなります。本来なら良いところと見られていた事であっても、周りと同化する中に、良いと口に出すまでに至らなくなった、ということはよくあります。それでも良いところを口にせねばならぬ時は、そこに形容詞的な意味合いの何かを付加するとか、狭小な範囲にまで絞りきるとかのテクニックが必要になってきます。

 

良いところは本人が思うところとは、必ずしも一致するとは限りません。自らの長所を自らが語る時に躊躇するように、周りが見る目の置き所は、客観的で浅く外見の一容を見て、限りある語句の中から選択する手法を取ろうとします。人の評価はそれほど軽いものであって、「そうとは知らなかった」との語を口にした時は、その軽さを認めたことになります。

 

良いところをなかなか口にしないのは、個人を否定していることではありません。際立った良さを持たぬ人を否定することが許されるなら、殆どの人が否定されてしまいます。時代の中、社会の中でごく普通であることは、このこと自体が良識の範ちゅうで、敢えてそれ以上の良さを求めねばならぬところに無理があります。無理やりこじつけたような良さには、嫌味が多分に含まれ、ひいては個人の否定に繋がっています。

 

人は良いところと悪いところの両方を持っています。良いところより悪いところが目立ってしまうのは、常識という尺度で見ているからです。「悪いところは沢山あるが、良いところは無い」と自答してしまうのも、この常識の中で考えてしまうからです。

 

人の目は常に正しい判断をするわけではありません。それゆえ「人の目を気にするな」と言いますが、やはり気にしてしまうのが人であり、意識するあまりになおさら良さを出せずに終わってしまいます。良さを出すことは簡単です。手っ取り早い方法は人の言いなりになることです。そうすれば、素直な人間だと評価されます。しかし、それが当たり前になった時、それは、「主体性が無い」との評価に豹変します。意識せずに人から認められる良さは、自らが自らのことを熟知することから生まれます。熟知するところに誤りがあってはなりません。その人の良いところはその人の最も輝くところにあります。