『悪行は清らかなるも 善行は濁りの中にあり』

善行にも裏表があり、打算や思惑が往々にして絡むことがあります。

 

「あいつが、そんなことをするなんて、ちょっと考えられない」と眉唾で見られたりするのが、この善行です。なにしろ日頃が日頃ですからね。良いことをしても、なんか胡散臭く思われてしまいます。

 

一方の悪行はというと、どんな些細なことであっても、即悪の一点に終結されます。もちろん実社会においても、悪行には厳しいお咎めもありますから、人の頭の中では、基本的に悪行は駄目とインプットされています。

 

すると、「悪行を為すところに悪人あり、善行を為すところに善人なし」と言い換えることも出来ます。よくよく考えて見れば、正しいことを行うのは人の道であって、善行はして当たり前とするのが、この社会の正しい在り方だったはずです。

 

ですから、ちょっとした善行を美化するには当たりません。それでも美化しょうとするのは、やはり、思惑があるからで、このことからも、善行は濁りの中にあると言えますね。

 

「まぁ、いいことしたね」

 

お母様に褒められ、嬉しそうなお坊ちゃま。でも、いいことの一つや二つをしたところで、善人と呼ばれるわけではありません。

ましてや、

 

「じゃあご褒美に、今日の夕飯はあなたの大好きなハンバーグにするね」
「ヤッタァ」

 

となると、お坊ちゃまは既に、思惑のある善行を覚えたということになります。

人の良いところを探して見る

誰にでも良いところはあると言いますが、裏を返せば良いところがなかなか見つからないとなります。本来なら良いところと見られていた事であっても、周りと同化する中に、良いと口に出すまでに至らなくなった、ということはよくあります。それでも良いところを口にせねばならぬ時は、そこに形容詞的な意味合いの何かを付加するとか、狭小な範囲にまで絞りきるとかのテクニックが必要になってきます。

 

良いところは本人が思うところとは、必ずしも一致するとは限りません。自らの長所を自らが語る時に躊躇するように、周りが見る目の置き所は、客観的で浅く外見の一容を見て、限りある語句の中から選択する手法を取ろうとします。人の評価はそれほど軽いものであって、「そうとは知らなかった」との語を口にした時は、その軽さを認めたことになります。

 

良いところをなかなか口にしないのは、個人を否定していることではありません。際立った良さを持たぬ人を否定することが許されるなら、殆どの人が否定されてしまいます。時代の中、社会の中でごく普通であることは、このこと自体が良識の範ちゅうで、敢えてそれ以上の良さを求めねばならぬところに無理があります。無理やりこじつけたような良さには、嫌味が多分に含まれ、ひいては個人の否定に繋がっています。

 

人は良いところと悪いところの両方を持っています。良いところより悪いところが目立ってしまうのは、常識という尺度で見ているからです。「悪いところは沢山あるが、良いところは無い」と自答してしまうのも、この常識の中で考えてしまうからです。

 

人の目は常に正しい判断をするわけではありません。それゆえ「人の目を気にするな」と言いますが、やはり気にしてしまうのが人であり、意識するあまりになおさら良さを出せずに終わってしまいます。良さを出すことは簡単です。手っ取り早い方法は人の言いなりになることです。そうすれば、素直な人間だと評価されます。しかし、それが当たり前になった時、それは、「主体性が無い」との評価に豹変します。意識せずに人から認められる良さは、自らが自らのことを熟知することから生まれます。熟知するところに誤りがあってはなりません。その人の良いところはその人の最も輝くところにあります。

仏教についてちょっと学んでおいた方がお得です

 

うちのお寺は真宗大谷派(お東) (わが家の宗教を知るシリーズ)

うちのお寺は真宗大谷派(お東) (わが家の宗教を知るシリーズ)

 

 過日、MSNのニュース欄に、

 

呼んでもいないのにお坊さんが4人…請求額500万円! 戒名と布施のトラブル事例、事前に話し合いを

 

という記事が載っておりました。〔※未だ掲載されているかどうか分かりませんが、リンクを貼っておきます〕

 

なにしろこの太平の世ですからね。今の若い方たちは、ご自分の家の宗教が何であるかもご存知ない方が多いでしょう。唯一、宗教に接する機会は、年に一度の墓参りか、あのパワースポットなんぞと聞いて、行ってみようかと思う程度ではないでしょうか。

 

まあどんな宗教を受け入れるか受け入れないかはご自由ですし、宗教なんか私は信じない、と宣言されてもいっこうに構いません。ですが、宗教に限らず何事においても知識があるのと無いのとでは大違い。ちょっとした知識があれば、嫌な思いをせずに済ませることも可能となります。

 

日本は仏教が主となっていますから、当然ながら仏教徒が沢山いることになりますが、仏教徒といっても、キリスト教カトリック教徒やプロテスタント教徒、イスラム教のスンニ派やシーア派などと同様に、仏教にも沢山の宗派があります。

 

例えば、「あなたの宗教は?」と問われた時、単に「我が家は仏教」と答えるのは大雑把過ぎで、「○○教の○○派」あるいは「○○寺の門徒」、と答えるのが正しいと思います。

 

ですから、いざ葬儀ということになりますと、葬儀屋さんが、「それでお宅の宗派は?」と聞いて来るのに対し、「え~と、確か婆さんが、仏壇に向かって「帰命無量寿如来」と言っていたな?」と、うろ覚えの一節を言うわけですね。それで、葬儀屋さんは、「真宗ですね」と、こうなり、その宗派に応じた葬儀を提案して来ます。

 

ここで、そっちの方の知識がそれなりにありますと、「いやそれは違うでしょう」とか、「そこのところはこうして下さい」とか、「坊さんの方は、こちらから連絡します」とか、言える訳です。もちろん、全ての葬儀屋さんが悪いというわけではありませんが、あちらも商売ですから、こちらが無知なばかりに、色々とさもそうであるかのように、振舞って来ます。

 

そこで役に立つのが、双葉社が発行している「うちのお寺シリーズ」です。猫玉の家は『真宗大谷派』ですので、このシリーズの「うちのお寺は真宗大谷派 お東〔わが家の山宗教を知るシリーズ〕」を学んでおります。この宗派の特徴や他宗派との違い、その他諸々が、解説されておりますから、大変重宝しております。

 

※もちろんこの記事は、双葉社さんの宣伝ではありませんからね。

嫌らしさが満々の氷水かぶり

筋萎縮性側索硬化症ALS)の治療研究を支援するチャリティ「Ice BucketChallenge」。このチャリティに水を差すものではないが、一部の人達は、これを面白がり、売名行為に利用している節がある。そもそも、寄付行為は、その主旨に賛同し行うもので、その寄付行為を吹聴するものではないはずだ。

 

氷水をかぶるところをマスコミに宣伝し、うわぁ冷たい、とわざとらしくおどけて見せる。あくまで治療研究の資金集めが主であることは明白で、まともな人間なら、こんなパフォーマンスを見せびらかさずに、黙って財布を取り出すだろう。

 

しかし、この寄付集めのスタイルは、あの幸福の手紙そのものじゃないのか? 相手構わずに3人を指名し、無理矢理巻き込んでいく嫌らしさ。氷水をかぶるか寄付をしろ、と脅迫めいた言い草に胡散臭さが透けて見えたりする。指名された者には身体を悪くしている者もいるだろうし、生活に困窮している者もいるだろう。

 

いつまで、このパフォーマンスが続くか分からないが、真冬の厳寒時が楽しみだ。暑い今だからこそ氷水はかぶれるが、その時どれだけの人が氷水をかぶるか、楽しみこのうえ無い。心臓マヒでぽっくりと逝ったりして!

自己中と自己抑制

アメリカの故ケネディー大統領は、その就任演説の中で次のように述べています。

 

「祖国があなたに何を出来るかを問うより、あなたが祖国に何が出来るかを問うてほしい」

 

この一節は有名ですから、ご存知の方もいると思いますが、この祖国の部分を社会や政治に置き換えると、考えさせられるものがあります。 社会が国民一人ひとりを斟酌して、動いているわけではないことは言うまでもありません。政治もまた然りです。

 

その中で、自らを弱者と決め付け、社会の中に溶け込もうともせず、なるべくしてなった疎外感に腹を立て、「社会が悪い、政治が悪い」と居直りを見せるのは、如何なものでしょうか。

 

自らを弱者であると決め付けるのは簡単なことですが、とにかく命が果てるまでは、生きて行かねばなりません。生を受けてから死に至るまで順風満帆で一生を終えることは理想であって、それが叶わぬことと分かるには、さほどの時間も要しません。

 

自分の思い通りにならぬ苦しみ、仏教でいうところの「五蘊盛苦」になろうかと思いますが、それでも人は少しずつ学びながら、これに耐える知識を蓄えながら、生きて行きます。人が自らを中心に考えるのは、当然のことかと思います。人はなぜ自分中心に考えるのか。お釈迦様はこう言っています。

 

「人はこの世にひとりで来て、ひとりで帰る」

 

人は生まれて来るのもひとりなら、死んで行くのもひとりであるとの意ですが、自分の死に関しては、たとえ肉親であっても変わって貰えない。「この子の命が助かるなら、私の命を差し上げます」と母親が泣き叫ぼうと、子供の命は助からない。この現実があるからこそ、自分中心にと考えざるを得ないとなるのです。

 

しかし、社会というところは、自分中心の集合体であるにも関らず、成り立っています。そこに何があるかというと、自分中心より勝るものがあるからです。それは共生ということになるのですが、ここで いう共生とは、単に横並びにあるということでは
なく、互いに補あいながら生きて行くということです。

 

これは得るだけの一方通行ではありません。ある時は得ることがあっても、ある時は与えなければなりません。その与えるということの前提には、自己抑制ということが必要です。
冒頭の「あなたが祖国に何が出来るかを問うてほしい」に答えを出すとすれば、この自己抑制ということになるのではないでしょうか。

 

社会や政治に不満を感じるのは、そこに自己抑制がなくあくまで自分中心の域を頑なに守ろうとする姿であり、共生から遠く離れた位置で、遠吠えを繰り返す野犬に等しい姿ではないでしょうか。確かに自己抑制を続けることは苦しいことでもあります。しかし、苦しみを乗り越えてこその喜びに勝るものはありません。問題はそこに一歩入っていくかどうか、その気持ちがあるかどうかということになります。

暑い夏は排気ガス攻撃で気分爽快!

ご近所のコンビニに、身体に悪い草〔普通、煙草といいますが?〕を買いに行くのが日課の猫玉ですが、この季節、コンビニの駐車場には、エンジンを掛けたままの車が沢山停まっております。エンジンを掛けたままというのは、もちろん、暑い車中を避けようとエアコンを掛けっ放しにするためですが、当然ながら排気ガスもまた出放しということになります。

 

猫玉としては、コンビニに停車中は、エンジンを止めろなんてことを言う積もりはありませんが、せめて、車の後ろをコンビニ側に向けるのだけは止めて欲しいわけで、なぜかと言いますと、コンビニの軒先の僅かな日陰で、煙草を吸いながら、アイスコーヒーを飲むのが猫玉のちんけな至福の時なわけでして、その猫玉を目がけて排気ガス攻撃をされますと、さすがに温厚な猫玉も、ムッ!となるわけです。

 

最近は、スマートフォンが流行でして、スマートフォンで何をされているのかは分かりませんが、猫玉の方に排気ガスを掛けながら、涼しい車内で、それはそれは楽しそうに、スマートフォンをいじくっていらっしゃいます。もしかしたら、猫玉が嫌な顔をして車の方を見ているのを、無視出来るほどの面白いゲームなのかも知れませんが。

 

いくら、排気ガスの浄化技術が改善されて来ているとはいえ、排気ガスを好き好んで吸う人はいません。一昔前なら、排気ガス自殺なんて事もよく耳にしたものでした。猫玉は気配りなんぞとの語を出したくはないのですが、もしカワイイご自分のお子様が車の後ろにいても、排気ガスを掛け続けるでしょうか。

 

嫌なら、そんなところで煙草を吸うな、と言われるかも知れませんが、それは時と場合によります。なぜなら、猫玉が先にその場所にいるのですよ。そこに後から来た自動車がバックで停車させ、エンジンを切るのかと思いきや、俺の車の排気ガスを思いっきり吸いやがれ、とこうなるのですよ。猫玉がいくらお馬鹿でも、エンジンを掛け放しの車の後ろへは行きません。ご無理なことをお願いしているわけではありません。あなたの素敵な車のフロントを見させて下さいと言っているだけです。

ワールドカップ考 やはりランキング通りとなってしまった日本サッカー

我が日本チームは、予選最終戦でコロンビアに4対1と完敗し、グループCの最下位になってしまいました。前回このブログ『過度に期待しすぎの日本サッカー』でも書きましたように、やはりランキングというものを思い知らされた結果だと言えます。

 

1位 コロンビア    ランク 8位 3勝
2位 ギリシャ     ランク12位 1勝1分1敗
3位 コートジボワール ランク23位 1勝2敗
4位 日本       ランク46位 0勝1分2敗

 

最後のコロンビア戦を終えて、選手達の一部は「自分達は未熟だった」と述べていますが、もし最初から自分達が未熟であると本当に理解していたのなら、結果はどうなっていたでしょうか。サッカーにはド素人ですから、具体的な戦術がどうのこうのとはいえませんが、未熟がゆえの戦い方があったのではないでしょうか。

 

選手たちが口にする言葉に「自分達のサッカー」があります。これもその戦術の一つなのですが、これが機能したのは、殆どが日本よりランキングが下位の国ではなかったでしょうか。相撲でいえば、十両に勝ったからといって、その取り方〔戦術〕が幕内上位にも通じると思っていたのではないでしょうか。

 

どんなスポーツであっも、世界的な大会で活躍する日本人の姿には感動を覚えます。しかし、スポーツはやはり実力の世界であって、意気込みだけで勝てるものではないでしょう。中には、意気込みに感動する日本人もいるかもしれませんが、それは日本だけでなく、対戦国もまた然りということがいえます。日本の意気込みが対戦国に勝ったから勝負にも勝った。そんな簡単に結論づけられるなら、あの根性論を持ち出せば、事足りることになってしまいます。

 

今回のワールドカップで、日本人の弱点が何であるかは、十分理解出来たと思います。サッカーは団体競技とはいえ、個々の選手能力がものをいいます。個人能力が高い選手が多ければ多いほど、相手に対して優位に立つことが出来ます。個人能力は、スピードやスタミナ、機敏さ、敏捷性、瞬発力、それに相手に絶対負けないという精神力など沢山ありますが、わずか一つや二つが他の人よりも勝るというレベルでは駄目だということが実感できたはずです。

 

次のワールドカップまでこれから4年間、日本がどんなチームに生まれ変われるのか分かりませんが、ともかく個々の能力を高めることが大事です。また、アジアチャンピオンの称号など役に立たないことが分かりました。世界ランキングで常に20位内にいることが重要です。欲を言えば、日本と試合をしたくない、と言わしめるような技術でも精神力でも強い日本になって欲しいものです。